コラム

ベンチャー経営者奮闘伝

第06回 「コーシン物産」 高柄烈社長

今回登場するのは銀行支店長から転身。何とキムチの宅配という前職からは想像だにしないビジネスを始め、現在は代理店展開で全国に220店もの代理店を設置、昨今のキムチブームの中で大活躍するコーシン物産の高柄烈(こう・へいれつ)社長だ。資金はわずかに100万円、4畳半のボロアパートから徒手空拳で身を起こした高社長のビジネスにかける思いを紹介する。

大阪市生野区鶴橋、焼肉の街として知られ、最近では全国から「鶴橋の焼肉」を食べにくる程の名所だ。この地に昭和29年高社長は在日韓国人2世として生まれた。6人兄弟の末っ子であった高社長は明朗快活な性格で人気者だったようだ。高校生時代はサッカーに明け暮れた毎日だったという。この頃の夢は「落語家になりたい」。外交的な性格で、喋りも上手な高社長らしい夢といえる。高社長の両親は戦時中に斎州島から渡ってきて鶴橋で衣料品店を営んでいた。子供の頃は弁当にキムチを持っていった折に同級生から「臭い」といわれたこともあったという。その当時は日本名を使い、日本人学校に通っていた高社長だが、高校3年生の夏、日本の高校に通う同胞の集いであるサマースクールに参加、そこで民族的な目覚めを体験したという。

卒業後は民族系の銀行に勤務、その外交的な性格が幸いしてか、支店長にまで昇格。しかし、本人言うところの「プレッシャーとストレスに負けて」18年間勤務した銀行を退職してしまう。「私が退職した平成元年といえば正にバブル経済絶頂期でした。誰もが浮かれており、この好景気が終わるなんて考えもしなかったですね。あの当時は現金30億円を運んだこともありますし、それこそ電話1本で億単位の金を動かすなんて日常茶飯事でした。しかし、私は人にほれ込んでしまうタイプの人間なので銀行独特のマネーゲーム的な世界に中々馴染めませんでした。お客さんに肩入れしすぎてしまい、上層部とは衝突ばかり繰り返していました。そんな毎日に耐えられなくなってしまったのですね」。 しかし、お客さんや部下の営業マンには慕われており、退職時には顧客を中心に「オレのビジネスを手伝わないか」「オレが金を出すからやってみないか」といった誘いは引きを切らなかったようだ。中には銀行支店長以上の高待遇の話もあったが、高社長はこれらを全て断ってしまう。「他人の世話になってしまうとしがらみができてしまう」というのがその理由だった。ここから数年間は在日の同胞を対象とした結婚相談所のようなことなどをやったりもしたが、それすらもビジネスベースというわけではなかったようだ。同胞の中に結婚問題で苦しんでいるものが多い、という現実を耳にして「だったらオレが一肌脱ごう」といった感覚でやったものであるようだ。

こうして数年間を過ごしている間にも高社長には一つの夢があった。それは生まれ育った故郷「鶴橋」の味を全国ブランドとして広めていきたい、というものだ。その中でたどり着いたオモニ(母)の味がキムチだった、というわけだ。「鶴橋なのですから焼肉、という選択肢も確かにありました。しかし、焼肉は資金がどうしても1000万円単位でかかってしまいます。自分の少ない資金でできることといったらキムチという選択肢になっていったのです」。 こうしてスタートした高社長のビジネスは家賃2万円、4畳半のボロアパートが事務所。そこからキムチと韓国の珍味を軽トラックに積んで高社長自ら行商することからスタートした。これは好評だった。住宅地の真ん中に車を停め、ハンドマイクで「鶴橋のキムチを持ってきました。本場の味をご家庭にお届けに参りました」と一席ぶつのだ。 ここで、高社長の弁舌の巧みさが幸いした。軽妙なトークに乗せられ、近所から人が集まってくる。味も確かということで固定ファンとなっていく。そうしているうちに「キムチを売り歩く面白いおじさん」がいるということで、上沼恵美子のラジオ番組で紹介されるなど知名度は徐々に上がっていった。「正直、銀行の支店長まで勤めた自分が長靴をはいて1個数百円のキムチを売って歩くことには若干の気恥ずかしさはありました。しかし、銀行時代に何の感動もなく目の前を通り過ぎていく1億円よりも、自分で額に汗して売った1000円が実感を持ってきたことも事実です」。

人気漫画家の高信太郎氏と知り合ったのもこの頃だ。 最初は高氏が書いた韓国の紀行本に感想の手紙を出し、それに返事をもらったのがきっかけ。手紙でやり取りをしているうちに名古屋で開かれた高氏のトークショーに招待される。その晩は飲みながら、本音で話すうちにお互いに酒の勢いもありヒートアップ。結局は喧嘩別れとなってしまった。 しかし、大阪に戻った後も手紙や電話で連絡を取り合っているうちに高社長言うところの「腐れ縁」に発展。 高氏はビートたけしや立川談志へのお歳暮などに高社長のキムチを使ってくれる程の友誼を見せてくれている。さらに、高社長が商品に高氏のイラストを入れたい、というと原画を送ってきて「金は要らない。俺の写真も含めて好きに使ってくれたらいい」とまで言ってくれたという。 「私は本当に人に恵まれていると思います。特別な才能があるわけでもないのに、周りが私のことを助けてくれるのは本当にありがたいことだと、常に感謝しています。高さんほどの人気漫画家のイラストを無料で使わせていただけるなんて本当にありがたいことです」。

こう語る高社長だが、ビジネスのアイデアもなかなかのもの。 93年には「祭祀(チェサ)パック」を発売。儒教の影響で先祖に対する法事を重要視する朝鮮民族にとって、この時の料理負担はかなりのものであった。そこで、全国で初めて祭祀用料理をパック化して売り出したところ、これが同胞に喜ばれた。このアイデアを転用して94年にはキムチの宅配代理店システムを開始する。これは「キム宅(たく)」という名前の商標登録まで取っている。 このシステムは5万円払い代理店となった人に対しその地域での自由販売を認めるというやり方。中には副業から転じて専業のキムチショップを経営するまでに発展させている人もいるという。 97年にはこのシステムがリクルートの発行するベンチャー起業マガジン「アントレ」主催の「起業の卵」コンテストで大賞を受賞した。こうした形で客観的に将来性を認められてきたことが高社長の自信にもつながっている。現在代理店は220店。南北首脳会談の実現を契機として祖国の状況は大きな転換期を迎えている。その中で開催される2002年の日韓ワールドカップまでに1000店の代理店を設置、「ワールドカップのスポンサーになり、祖国と日本をつなぐ掛け橋の一つになりたい」という大きな夢を胸に、高社長は現在も「キムタク」を積極的に展開中だ。

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