コラム

ベンチャー経営者奮闘伝

第08回 「沖縄アクターズスクール」 マキノ正幸校長

今回登場するのは安室奈美恵やMAX、SPEED、DA PUMPなど芸能界で活躍する超一流タレントを続々輩出した沖縄アクターズスクールのマキノ正幸校長。「子供が持っている無限の可能性」。これを追い求めるマキノ校長の教育論は、人材教育で悩む経営者のみならず、全てのビジネスマンに大きな感動を与え、共感を得ています。

昭和16年。太平洋戦争が始まったこの年に京都府に生まれたマキノ正幸氏。祖父は『日本映画の父』と呼ばれる牧野省三氏。父親は海外でも高く評価されていた名映画監督マキノ雅弘氏、母親は女優の轟夕起子氏、という芸能一家に生まれ育った。ちなみに俳優の津川雅彦氏や長門裕之氏は従兄弟に当たる。芸能界切っての名家ともいえる家庭に生まれ育ったマキノ氏は、幼い頃から何不自由ない生活を送ってきた。青山学院大学に通う青年期には文字通り享楽に耽溺していたという。大学を卒業後には従兄弟の長門裕之氏が主催した人間プロの設立に専務として就任した。昭和41年には若干25歳で日本中央競馬会( 現在のJRA)の最年少馬主となった。中央競馬会の馬主といえば年収や資産などの審査が厳しいことでも知られている。一般的には功成り名を遂げた人間が手に入れる最後のステータスといった趣さえある資格だ。これを20代にして手に入れてしまうのだから、その派手な生活ぶりは想像に難くない。 その後も世良譲氏や笠井紀美子といった面々とジャズクラブを経営。これは今や伝説とさえ言われているという。そして、その2年後には福島県でスキー場の経営に当たる。しかし、こうしたお坊ちゃん育ちだけに何をやっても長続きはしなかった。

こうしているうちに昭和46年にはマキノ氏にとって運命の土地となる沖縄に移住した。そこでナイトクラブを経営した後に、昭和58年にアクターズスクールを開校したのだ。 しかし、やる気があったとはいえないようだ。当初は今まで通りの気楽さが先に立ち、生徒からみても「この人についていけば」と思える状態ではなかったようだ。初年度には1600人集まった生徒が、瞬く間に10人以下に減少したことからもそうしたことは窺い知れる。 「あの当時一日に口に出来るものはハンバーガー1個でした。家からスクールまでの道のりを3年間毎日歩いて通っていました」 こうした逆境の中でマキノ氏は一つだけ自らの「プロデューサー」としての才能に気がついた。鏡の前で裸になり、何時間も自ら踊りダンスを研究した。そうした中からアフリカの民族舞踏に範を得たダンスを編み出した。そのダンスは体中のバネを使った躍動感溢れるものだった。「あの逆境の中で、自らの『オンリーワン』の才能に気づいたから、それを思い切り伸ばす、という私の教育方針の原点が見えてきたと思っています」マキノ氏と沖縄アクターズスクールにとって飛躍の大きなきっかけになった安室奈美恵がスクールの門を叩いたのはちょうどそんな折だった。当時彼女は10歳だった。「黒くて、細くて、ありんこちゃんみたいだったですね。女性マイケル・ジャクソンと思いました。この子を僕が掴まえたら絶対に売れる、そんな確信がありました」マキノ氏の狙い通りだった。安室はマキノ氏の感じたことや要求を完璧に体現していった。しかし、芸能界は沖縄の小さな芸能スクールの新人にとっては冷たいものであった。しかし、ここでタイミングがマキノ氏を救う。小室哲哉やエイベックス・レコードが仕掛けたダンスミュージックブームが到来したのだ。抜群のリズム感とダンスを兼ね備えていた安室はそんなブームの中メキメキと頭角をあらわしていった。そして、大ブレークした。「女子高生の教祖」となり、アムラーなる言葉まで生み出した。もはや一人のタレントではなく社会現象とさえなっていたのだ。出すレコードは全て大ヒット。レコード大賞も受賞した。マキノ氏の完全な読み勝ちだった。

沖縄が中央を制した、とさえ言われたこの成功にもマキノ氏の心の中は暗澹たるものがあった。「子供は芸能界に行くとアクターズスクールで培った『自分を伸ばす』、『自分の限界にチャレンジする』といった精神を失ってしまう。芸能界という消費社会の中に飲み込まれていってしまうのだろう。安室も世界を狙おう、というときに男に感けている場合ではないだろう」しかし、マキノ氏のこんな思いとは別に安室のバックダンサーからスタートしたMAX、小学生と中学生のボーカル&ダンスユニットSPEEDと続々芸能界を席巻するアクターズ旋風。 そのヒットメーカー振りに対して周りからは「女性版ジャニーズ事務所」誕生とさえ言われた。 ここで、マキノ氏は大きな方向転換を見せる。「このまま芸能界に才能を提供し続けるだけではつまらない。沖縄という”辺境の地”が中心になってやろう。沖縄に面白い場所を作ろう。それが出来なければ自分にも子供達にも未来はない」 再度マキノ氏の挑戦が始まったのである。資本金は5000万円で株式会社マキノワークスを設立した。「いつまでも裏方ではないぞ」というマキノ氏の出陣宣言である。プロダクション98%、スクール2%という利益配分における芸能界の常識を50:50(フィフティー・フィフティー)にしてみせる、と宣言した。こうして新たに手を組んだアミューズと開催した「全国オーディション」には全国から5万3000人が応募、マキノ氏の変わらぬ影響力を誇示する結果となった。ここから誕生したのが才能集団「B.B.WAVES」。既に全国各地で従来の枠に縛られない芸能活動を始めている。マキノ氏は現在のスクールは数年以内に廃止し、超少数精鋭教育に切り替えていきたいとしている。

芸能界への挑戦を続ける一方で子供達の才能にかけるマキノ氏の思いは彼をニュービジネスに駆り立てた。一昨年の4月、沖縄に「ドリーム・プラネット・インターナショナルスクール」を開校したのだ。カリキュラムはマキノ氏ならではの実にユニークな内容となっている。授業は1日30分を2回だけ。週2日休み、1日は弁当持参で森で過ごす。芸能やスポーツなど個人の『オンリーワン』の才能を最大限伸ばすことに主眼を置いている。マキノ氏のこうした着眼点には地方自治体も興味を持っている。すでに、北海道千歳にも開校が計画されているという。この学校に際しては心強い協力者もいる。校長を務める白井智子さんだ。幼い頃をオーストラリアで過ごし、東京大学を卒業後、松下政経塾で教育改革をテーマに研究。『教育はシステムだけでなく現場の問題』という白井さんの考えが、マキノ氏の教育にかける熱い情熱とマッチした形だ。逆境をバネに、時代の先を的確に読み、常に新しいところから発想するマキノ氏の動向からは目が離せそうにない。

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